2011年6月30日木曜日

角田は今日も元気でした。

みやぎの産直産地である角田へ行きました。

みなさん、それぞれいろいろあるでしょうけれど、みんな明るく元気に迎えてくれました。


産直いちご部会長の小野さん。
いつものハニカミ笑顔が誰かに似ています。
ハウスなどに被害はなく、部会のみんな元気だとのこと。安心しました。むしろ地震のあと、ワッといちごがなったそうで、地区のみんなの間では、地震の影響じゃねぇか、ともっぱらの噂だそうです。おかげで去年より出荷量は増えたそうでした。今年の苗の確保はなかなかに厳しいようで、今は秋のための仕込みをしていました。


産直トマトの部会長、三浦さん。
以前は農家ではありませんでした。新規就農されるまでの情熱的なお話は何度聞いてもためになります。
昨年のトマトは、春先の低温の影響で、今までで一番大変でした。今年は、今のところ順調。豊作傾向だそうです。
共同購入は注文いっぱいもらっているね。うれしいね。
僕も嬉しいです。


産直なしの部会長、高橋さん。
奥で作業されているのは奥様。
気仙沼で被災した娘から手作りの「しそ巻き」が届いたんだ。元気な証拠だよってね。ほら食って食って。お茶っこも飲まいん。ささっ、遠慮しねぇで。
忙しい作業のさなか、一生懸命もてなして下さいました。外側の大葉が最高にパリパリで、中の味噌も控えめな甘さで、とってもおいしいしそ巻きでした。
梨も、地震で多少根が地面から出たところもあるそうですが、今は復旧したそうです。天候も生育も順調で、昨年よりもたくさん採れそうだよ、とニコニコでした。

今年はみやぎ生協の産直が始まって41年目。

待っているみんなのために、今年もよろしくお願いします。

控えめな主張

朝、福島市を出発し、みやぎの産直産地である角田市に向かうため、国道349号という国道を走りました。

この道、福島県からちょうど角田へ通じる、今朝の僕にとっては好都合な道なのですが、これがまた曲がりくねった超細い道路で、対向車とのすれ違いもぎりぎり、これでも国道ですか?という道路でした。


阿武隈川に沿って曲がり道がくねくねと伸びており、気を抜くと簡単に川へダイブしてしまうような、スリリングな道でもありました。

道沿いには若干の人家もあり、やはり土地のみなさんも、この道には不便や危険を感じているようで、国道349号の拡張を求める立て看板が立ててあったのですが、その控えめな主張が、なんとも胸に染みたのでした。


「349(さんよんきゅー) 広くなったら うれしいな」


その看板は、福島県境から入ってすぐ、宮城県丸森町耕野(こうや)地区に、やはり控えめに立っています。その土地に暮らす人々の人柄が偲(しの)ばれます。

人とのつながりを感じることが多いこの頃。この看板はずっと前からあるような雰囲気でしたが、この看板を見て、また、少しあたたかい気持ちになりました。僕も、広くなったら、うれしいな、と思いました。


角田まで、もうすぐです。

2011年6月29日水曜日

産直提携協議会 in 産直センターふくしま

サンネット事業連合の産直先である、「産直センターふくしま」さんと、年に1度の産直提携協議会が福島市で行われました。



産直センターふくしまさんは、福島県北部を中心とした産地で、毎年桃、梨、ぶどう、りんごを作っていただいており、3年前から産直の取り組みを一緒に始めました。

今年は、特別な協議会になりました。

産直センターふくしまの阿部理事長の「3.11からすべてが変わってしまいました」の言葉がすべてを物語っていました。
未だ収束が見えない福島原発の影響は計り知れず、福島県内ではすでに15000人の子供たちが転校しているという状況も聞きました。

今年のそして来年以降の、桃は、梨は、ぶどうは、りんごはどうなってしまうんだろう。
ぶどう部会長の遠藤さんは、「日中は夢中で作業しているからあまりそのことは考えない。でも、夜晩酌する時と、朝起きたときに、ため息をついてしまうことがあるんです」と、正直な気持ちをそれでも控えめにお話されました。
そんな先の見えない中、それでもみなさんは「生産者として、手を抜かないで栽培するのみ」と、何度も繰り返りお話されていました。

放射能への不安。怒り。子ども達への思い。やりきれない思い。多くの思いが渦巻いていることと思います。でも今日参加されたみなさんには、諦めはなく、戦う気持ちと、希望を見つけようとする強い思いを感じました。


商品に、産地の思いをのせて届けましょう。組合員さんからのメッセージも産地へ届けましょう。産地応援企画もやりましょう。いつもどおり、産地での交流もやりましょう。消費地にもいくよ。民泊もいいね、喜んで受け入れるよ。
協議会が進むうち、みなさんの表情は次第に柔らかくなっていきました。


一人で出来ることは限られているけれど、みんなで力を合わせれば、この難局に立ち向かえる。

参加したみんなの思いです。

2011年6月27日月曜日

グミの実



グミの実です。
漢字で書くと「茱萸」。全然読めません。

聞いたことはありましたが、見たのも食べたのも初めてです。
山形共立社の事務所で、清野さんからもらいました。

なるほどお菓子のグミはこの木の実が由来なのかな?と言ったら、優しい笑顔で否定されました。
お菓子の「グミ」はドイツ語の「Gummi(ゴムの意)」が語源だそうで、全然関係ないそうです。

甘くて、酸っぱくて、渋い。

子供の頃のおやつだったのよ。
あの頃はおやつと言ったら畑のきゅうりとかだったな。
今みたいにお菓子なんてなかったからねぇ。

そう言う清野さんは、自然とお国言葉になるのでした。
お国言葉で話す清野さんは、いつも若やいだ感じになります。去年、彼女の故郷近くの里芋産地に一緒に行った時も、やっぱりそうでした。まるで三つ編みだった頃の少女のようになっていて、とても微笑ましかったのを覚えています(三つ編みは勝手なイメージです)。

味と記憶は直結していて。
懐かしい味は、その人が押入れにしまっていた思い出を勝手に引っ張り出しては、無意識に言葉や表情まで変えてしまいます。

北海道の、今はダムの底に沈んだ集落で生まれた僕の義母は、「こくわ」を食べた子どもの頃の話をすると、やっぱり同じような表情になります。「こくわ」は、本州では「サルナシ」と呼ばれている木の実です。

僕にとっての「グミの実」は。。。


誰にとっても、大切にしたい味があるのです。あるでしょう?


一緒に行こうよ  “こくわ”の実 また採ってね
(晴れたらいいね)

2011年6月26日日曜日

はじめまして。

土日の休みを使って、家族で山形県朝日町へ行ってきました。

さくらんぼ狩りでは、貴重な黄色いさくらんぼ「月山錦」も食べさせてもらいました。大収穫でした。

温泉にりんごを浮かべたりんご温泉。今日は8個のりんごが浮かんでいました。

椹平の棚田は静かに雨に濡れていました。

沼に浮かぶ小さな島が動く「大沼の浮島」では、本当に水面を浮遊する島に驚きました。子ども達は鯉の餌やりでそれどころではありませんでしたが。

朝日町ワイン城で思う存分試飲しました。奥さんがです。

山の上にある「自然観」というキャンプ場のコテージへ泊まりました。生まれて初めての朝食のバイキングに子ども達は大喜びでした。

大谷果樹組合のみなさんとはじめましてのごあいさつ。生産者の一人遠藤さんの3人のお子さんたちと、一気に友達になっていました。そこら中駆けまわり、畑できゅうりをかじり、だんご虫を集めては大はしゃぎしていました。普段は虫にも触れない子ども達なのですが、環境が、虫を触れるようにしてくれたようです。

ほんのり色づいた小さなりんごの前で記念撮影をしました。

帰りに山形のざるそばをたべて帰りました。伊勢そばではありません。娘が蕎麦好きだと初めて知りました。


夕方の帰りの車の中、子ども達は「昨日の自分にもう一度戻りたい」と言っていました。それだけ楽しかったようです。言葉にはしませんでしたが、伝えたい事は伝わったようです。

りんごの実る頃、また来ることを約束しました。

お世話になったみなさん、ありがとうございました。


やっぱり、ここには会わせたい人たち、見せたい風景がいっぱいです。

2011年6月22日水曜日

それでも花は咲いていました。

今年5月の写真です。
この畑、なんの畑だったか分かりますか。



ぶどうの畑です。

秋田県十文字にある「こだわりぶどうの会」のスチューベン畑です。
今年の1月、38年ぶりの記録的な大雪の重みで、ぶどうの棚、樹が壊滅しました。
2m以上積り、一面雪原状態で、どこからが畑か分からないほどだったといいます。4月以降、雪が解けて初めて被害が明るみに出ました。予想はされていたそうですが、かなりショックです。

この畑が今はこのような状態にまで復旧しました。
地域のみなさんの必死の復旧作業で、地域の畑の90%近くは復旧しました。
でも復旧と言っても、折れた樹をカットし、棚にしている針金をすべて張りなおし、新しく苗を植える作業なので、きれいにはなったけれど棚はとても寂しくなってしまいました。新しく植えた苗は、収穫できるまで5年かかるそうです。


次の写真は、上の畑とは別の畑ですが、同じこだわりぶどうの会の収穫時期の畑。4年前の9月です。

この畑が大雪の影響で、20本以上の樹が折れ、今ではこんな状態に。
本当は、今時期だと、ぶどう棚の葉は茂り、花が満開になっている時期ですが、今年は空が丸見えで、普段生えない雑草が地面に茂っていました。


それでも、残った樹では、ぶどうの花が満開でした。
これがぶどうの満開状態です。


自分の産地がこんな状態なのに「こだわりぶどうの会」のみなさんは、地震のあとすぐに連絡をくれ、お見舞いまで送ってくださいました。
生産者の小川さん。38年前の大雪の年に生まれたそうです。


部会長の小松さん。
畑の樹が減りぶどうの葉がないから、棚の下にいても直射日光がまぶしいのでサングラスをかけているそうです。

被災地でも復興に向けて頑張っている。自分たちも頑張らなければ。
お二人からは、そんな思いがひしひしと伝わってきました。

今出来ることは、それぞれの環境で、それぞれです。
僕も、出来る限りのことをしようと改めて思いました。

復興ぶどう。出来秋が楽しみです。

2011年6月21日火曜日

振るだけで。

この前の東京出張の際、奥さんに頼まれて買ってきたものがありました。

その名も「パッとCOOL-ネッククーラー」。

水を含ませて、振るだけで冷たくなるタオルです。冷却持続時間4時間で、ぬるくなったら4~5回振るだけで、また冷たくなるというすぐれもの。何度も洗えて半永久的に使えるようです。しくみの秘密についていろいろ書いていましたが、僕に分かったのは振れば冷たくなるということだけでした。世界特許申請中だそうです。1890円。

本当はネッククーラーではなくタオルが欲しかったのですが、売り切れでした。奥さんに聞くと、その時仙台ではどこも売っていなかったそうです。今は分かりません。


震災後、環境は激変で、これからの夏もどうなるのか誰も分かりません。
でも、先人たちは常に変化に対応し、新しいものを創りだしてきました。
苦境でどこまでもがけるか。
もがいてもがいて、もがき抜いて、たとえそれが徒労に終わっても、そのもがきはきっと別の何かになるのだと思います。
今の現実が僕達に与えられた試練だとすれば、頭を使って汗を流して、乗り越えていかなければと思うのです。

暑さでぼーっとなっている中、ぼんやりそんなことを思うのでした。

そろそろ、僕にもネッククーラー貸してください。

2011年6月20日月曜日

風をあつめて

暑くなってきました。

おまけに、いたる所節電のため、エアコンを止めているものだから、なかなか大変です。

今日、仕事帰りに近所の家電屋に行きました。なんとそこもほとんど冷房なし。売っている扇風機が何台か回っている程度。家電が発する熱もあってか、むわっとします。「節電中で冷房を抑えています。気分のすぐれない方は係員までお申し付けください」とありました。レジには冷水がおいてありました。店内でうちわを配っており、それを話しかけるきっかけにし、営業に役立てていました。なるほど。


昨日の父の日、3年生と年長の娘たちが手作りのうちわをくれました。それぞれ色えんぴつで虹の絵が書いてあり、涼しげです。この夏活躍しそうです。


この前の土曜日、小学校の授業参観がありました。3年生の国語の時間で、「漢字の部首」の勉強でした。竹かんむりの漢字で、何がありますか?の先生の問いに、子ども達、一斉に、

節電の「節」!節水の「節」!

・・・・・・・。
子どもは、時代を写す鏡だな、と思いました。


風が吹く日は、窓を開けましょう。書類が風で飛ばされないように気をつけて。
公園で昼寝もいいね。

それで ぼくも 
風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて 
蒼空を翔けたいんです
蒼空を
(風をあつめて)

2011年6月19日日曜日

夏はもうすぐ

いつもお世話になっている先輩の家へ、すいかを手土産にお邪魔しました。

お子さんのすいかの食べっぷりを写真に撮らせてもらう目的でした。
紙面に使用するためです。

小学校3年生のお兄ちゃん、1年生の妹さんがモデル。
ふたりとも頑張ってくれました。
みごとな食べっぷりでした。
 

みんな、ありがとう。

またよろしくね。

2011年6月17日金曜日

片付け終了!

商品部のみんなで、地震の前までいた事務所の片付けをしました。


いるものといらないものを分けました。

ダンボール120箱くらいでしょうか。
これらは全部紙類。
この他に、他のごみもいっぱい出ましたが、紙が一番多かった。

こんなに紙での仕事をしていたのです。
そして、これらがなくてもこの3ヶ月間、仕事に全く支障がありませんでした。

案外、いらないものに囲まれて日々を送っているのかもしれません。

2011年6月16日木曜日

ボクノート

僕がとても気に入っているノートです。

最後の一冊もあと半分を切っていたので、まとめて3冊買いました。
北大でしか売っていないので、いつもまとめ買いです。
あと3冊あると思うと、とっても安心します。

産地を歩く今の仕事になってから、気がつけば13冊にもなりました。

最初のノートの1ページ目には、みかんの果汁のしみがついていました。
長崎のみかん園地で、まだ青いみかんを畑で食べながら、生産者の方へ根掘り葉掘り聞いていたことを思い出しました。

まだまだ色づきはじめてもいない、9月の終わりの青いみかんは、くぅーっ!となるほど酸っぱかった。でも、それはそれで、その時しか味わえない味でもあり、感動したことを覚えています。

青いみかんの情熱はそのままに、しっかり成熟しなければいけないなと、新しいノートを前に思うのでした。


耳を澄ますと確かに聴こえる僕の音
空は泣き止んで雲は切れていく

探していたものは、目の前にあった
(ボクノート)

2011年6月15日水曜日

Soraでつながってる


津波で大きな被害のあった仙台空港は、今まで到着便の荷物受け取り場所(ターンテーブル)があったほんの少しのスペースが、搭乗手続き窓口であり、搭乗口であり、荷物預かり場所となっていました。

おみやげコーナーが隅の一角に少しだけありました。
そして壁には全国の航空会社や空港からの寄せ書きが貼られていました。


乗降客の中にはギターを抱えた人も。もしかしたら名のあるミュージシャンかも知れません。ちょっと見覚えがありませんでした。
みんな思い思いに発着を待っていました。



離陸した飛行機の窓から見下ろす風景は、一面茶色でした。
本来緑である、半分くらい流されず残っている防風林が、すべて赤茶色く立ち枯れていました。塩害なのでしょう。瓦礫は寄せられているものの、まだそれだけのようです。

今日、空の上はどこまでも澄み渡り、海はとても穏やかで、小さなさざ波が打ち寄せているだけでした。

2011年6月14日火曜日

ここ

最近、前よりも家族で一緒にいる時間が増えました。

どこか遠くへ行くのもいいけれど、案外一緒にいればどこでも楽しいものです。

日曜日に家で子ども達と梅ジュースを作りました。
氷砂糖を舐めながら、ペーパータオルで一つずつ梅の水気をとって、青梅と氷砂糖を交互に瓶へ入れました。

あと1週間くらいで出来るはずです。
うまく出来るといいなと願っています。



どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言ってるうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく
(ここ 谷川俊太郎)

2011年6月13日月曜日

加藤さんの美声

JA鶴岡から、いつも元気なJAの加藤さんと、なめことだだちゃ豆を生産しているみなさんが、わざわざお見舞いに来て下さいました。僕は特に加藤さんの素晴らしく通る声を聞くと、無条件で嬉しくなってしまうのです。今日もいつもと変わらない笑顔と、窓を震わすような美声は健在でした。

地震の時の状況をお話ししたり、鶴岡の今の状況のことなどを話していると、生産者のお一人からこんなお話がありました。
「あの地震や津波の映像を見ていると、こっちまで何もする気がおきなくなってしまって。酒飲みにも行く気にならなくて。。。」と言われました。

元気な地域が活気がなくなること、それが経済の血の巡りを悪くするんです。そんな思いから、

「それが一番良くないことだから、夜のネオンの灯は消さないで欲しいんです。大丈夫なところはどんどん盛り上がってください。ね、加藤さん!」

そうこちらから加藤さんに話をふると、

テノール歌手が大ホールで朗々と歌い上げるように、空気がビリビリ震えるようないい声で、
「夜のネオンはお任せ下さい!みなさんをいつでもお待ちしておりますよ!!」と、ビリビリと言ってくださいました。



私達がお話していた商談室は、今仮設事務所なので、隣のテーブルとの仕切がありません。昼下がりの商談室は満席で、まわりのテーブルでは他の分類で商談や会議をしていました。

時間が止まった気がしたのは、僕達だけだったかも知れません。


僕たちは、こんなあたたかいJA鶴岡のみなさんが大好きです。

ありがとうございました。
十分元気ですが、加藤さんの美声に励まされてもっと元気になりました。
これからもよろしくお願い致します。

2011年6月12日日曜日

椹平の棚田



日本の棚田百選にも選ばれている、山形県朝日町の「椹平(くぬぎたいら)の棚田」。
大谷果樹組合のりんご畑からほど近い場所にあります。

昭和18年から2年間かけて作られた棚田は、地域の中学生も泊り込みで開墾に従事したそうです。現在は190枚の田んぼを25人で耕作しているそうです。

父の実家は米農家ですが、僕自身は体験程度にしか田植えをしたことがありません。だから、綺麗に見える棚田の裏側の、天候と戦う季節季節の地道な作業や、景観を守る土地の方々の苦労は想像しかできません。でも、この風景を見た瞬間は、ただただ純粋に見惚れてしまいました。おおっ!と思わず声まで上げてしまいました。

ひめさゆりの花が風に揺れて、陽は山の向こうに沈んでいきました。

もう少ししたら、この地域でもさくらんぼが鈴なりに実る時期になります。
その頃に、奥さんと子ども達を連れてこようと思います。

ここには、見せたい風景、会わせたい人たちがいっぱいです。

2011年6月11日土曜日

うまいりんごを作るから。


山形県朝日町のりんごの産直産地、大谷果樹組合では、今りんごの摘果作業の真っ最中でした。

「摘果」とはりんごの実をまだ小さいうちに摘むこと。
ひとつの花層(花のかたまり)には、おもに4~5輪の花が咲き実をつけるのですが、主にその中心の果実だけを残し、他のものは摘むのです。そうすることで、そのひとつに十分栄養も行き渡り、大きく、形がよく、味のよいりんごが出来るのです。りんごも選抜されていくのです。厳しい世の中です。

でも、摘果はその年のりんごのためだけの作業ではありません。
今年新しく伸びた枝にも実はなるのですが、それらはすべて摘まれてしまいます。新しい枝に出来る実は、枝が若いからでしょうか、小さいりんごにしかなりません。また今年実をならせるとそこには次の年のための「花芽」がつきません。だから、今年は、来年いいりんごを実らせるために、すべて摘んでしまうのです。

農家は常に次の年を、先を考えているんだよ。
その年だけがすべてじゃねんだよ。
そう言って、摘果をしながら笑う組合長の白田さん。


白田さんは、震災が起きた直後の3月15日、組合のみなさん7人で600個のおにぎりを握り、ご本人自らみやぎまで届けてくれました。電気、ガス、水道、食料がほとんどなく、だれもが困窮していたその時に、真っ先に助けてくれたのでした。
また、今月6月9日、10日には、山形共立社の組合員さんや職員のみなさんと一緒に、大谷果樹組合の生産者のみなさんも亘理や石巻まで炊き出しに来てくれました。

あれがあの時俺達ができた精一杯だったんだと照れ笑う白田さんは、こう続けました。

俺達は生協さんのおかげで食っていけるんだ。
生協さんが困っているなら、出来る限りのことをする。当たり前だよ。
俺達にはおいしいりんごをかせる(食べさせる)しかできねぇんだ。
協力するから、何でも言ってくれ。
うまいりんごを作るから。


ありがとうございます。
今年もおいしいりんご、待っています。

2011年6月10日金曜日

「大切に生きる」ということ

今日、市内の葬儀会館で、みやぎ生協の「東日本大震災 みやぎ生協職員犠牲者合同慰霊祭」が執り行なわれました。

今回の震災で、みやぎ生協では15名の職員が亡くなり、1名の方がまだ行方不明となっています。
今日は職員の他、ご遺族、元生協の職員が参列し、僕も中澤さんと参列してきました。

壇上で、縁の深かった方々が追悼の言葉を読み上げていました。

津波で5人の方々が亡くなった名取市の海沿いにある「閖上(ゆりあげ)店」の店長は、ひとりひとりのお名前を上げ、「どうして歩道橋へ逃げなかったんですか」「どうして公民館へ逃げなかったんですか」「どうして家へ戻ってしまったんですか」と、悲痛な思いを口にしていました。今言っても仕方がないと店長自身きっと分かっていながらも。

閖上店で犠牲になった5人の方のうちお一人は、ご本人の他ご主人やお母さん、二人のお子さんも波にのまれてしまい、ご家族で次女の方しか助からなかったとのことでした。中澤さんは、かつて閖上店で勤務していたことがあり、その方とは今年の1月にも飲みに行ったんだよと、慰霊祭が終わった後小さな声で話していました。

新聞やTVではお亡くなりになった方々、行方不明の方々の人数が日々何気なく報道されています。その途方も無い重さが、今日祭壇に飾られた、同じ職場で働いていた16名の方々の笑顔の写真を見たとき、実感を伴って迫ってきました。

参列者全員が、それぞれの思いを胸に、白い花を一輪ずつ献花しました。


みやぎ生協の斎藤理事長が16名の方々へ向けて話した言葉の中に、「私達に出来ることは、大切に生きていくこと」とありました。

「大切に生きる」。

口の中ででもいい。つぶやいてみて下さい。
すべてのことが、この言葉に含まれていると思います。

大切に生きていこうと思います。

2011年6月7日火曜日

うれしい知らせ

昨日、同じ職場の先輩に女の子が生まれました。

病院へ行くため、昼過ぎに仕事を切り上げて帰って行きました。

抱っこしたよ。
おっかなかった~。
かわいいね。
名前?決めたよ。
ひかり。
字は「光」にしようと思うんだけど、もっといい字があったらまた考える。
じゃ、お先!

いい笑顔でした。

大変な時代だけれど、元気に育って欲しいと思います。
我が家ともすぐ近所なので、うちのお姉ちゃんたちがこれから世話を焼きに行くと思います。
これからよろしくお願いします。

うれしい知らせを、ありがとうございました。

2011年6月6日月曜日

再会

縁とは不思議なものです。

長女が通っている習い事先で、彼女に新しい友達が出来ました。
なんと、長女とその友達は、全く同じ日に、同じ病院の、同じフロアで生まれたのでした。

9年前の秋の日、その病院では4人の女の子が生まれて、4つの保育器の中で眠っていました。誰かは泣いていたかも知れません。まだ開かない目。ぎゅっと握った小さな手。足首には母親の名前が入ったネームバンドがついていました。
その中の二人が彼女たちでした。

昨日(日曜日)にその習い事のイベントがあり、そこでお母さんと会って思い出しました。母親同士はすでに分かっていましたが、僕はびっくりです。その子と会うのは、保育器以来です。
学校は違うけれど、二人はそのグループの中で今一番の仲良しのようです。


大きくなったなぁ。。。


ついついこの前のことのようです。あっという間でした。
これから先の9年間も、同じようなスピードで時間は過ぎていくのでしょうか。

時間が進むのは幸せだけれど。
もう少し、ゆっくりでもいいよ、とも思うのでした。

2011年6月4日土曜日

現実の前で

産直きゅうりの生産者の阿部さんにご挨拶をしたあと、JAいしのまきの方に他の産直きゅうりの生産者のハウスを案内していただきました。

その方のハウスは、阿部さんのハウスから横方向に4~500mくらい行ったところでしょうか。海からの距離は阿部さんのところと変わりません。

それなのに。

その被害の大きさに、みんな言葉を失いました。

津波の直後には、30台もの車が折り重なるようにしてハウスへ突っ込んでいたそうです。今は数台を残して運びだされていました。
大きな道路に面していたため、津波の通り道になってしまい、被害が大きくなってしまったそうです。

続いて産直いちごのハウス(があったはずの場所)を案内されました。
何をどうしたらよいのか、何から始めればよいのか。ハウスは、ここにあったのか?

石巻の産直産地は壊滅状態だ、とは聞いていました。想像はしていました。
でも、現実は、想像とは全然違いました。

阿部さんのところの状況もそう。作業の困難さもそうです。
こちらの方のハウスの惨状もそうです。
現実を目の当たりにしなければ、本当のことは分かりません。汗をたらして腰を痛めて初めて分かることがありました。

僕たちは、職員として、同じ県で生活するものとして、知らなければいけないと思いました。
感傷的になるためではありません。次に進むために、何が必要なのか考えるために、現実を知らなければいけないと思うのです。
にわかに行った僕には現実のほんの表面しか見えていないかも知れません。でも、それが初めの一歩になればいいのだと思います。

石巻の産直きゅうり 再スタートのために

休みを利用して、石巻の産直きゅうり生産者、阿部さんのお宅へ、ビニールハウス内の泥除け作業をお手伝いに行きました。
男・中澤さん、トラベル東さんも一緒に行きました。

石巻は、今回の震災で、津波による甚大な被害を受けた地域のひとつです。
今回の津波によってもたらされた瓦礫は、通常1年間に石巻で出されるゴミの100倍。100年分の瓦礫です。この量は、石巻地区だけで、今回の震災で発生した岩手県全体の瓦礫量を上回る量というからその被害の甚大さがわかります。

阿部さんのお宅とその前にあるきゅうりのハウスは、海から2kmも離れているのに、2m以上の高さの津波が襲いました。阿部さんのご家族は2階に逃げて無事でした。2階からボートで救助されたそうです。

津波がハウス内へ運んできたゴミ、海砂、汚泥を取り除く作業をしました。大きな瓦礫はすでに全国から来たボランティアによって出されていました。
土の表面には、海の砂がいっぱい。それらを深めに削り、一輪車でひたすらハウス外へ搬出しました。腰にきました。土を削っていくと、下から濡れてひび割れたサザンの「稲村ジェーン」のCDが出てきました。どこかの誰かのものでしょう。よく分からない部品やガラスの破片等もいくつも出てきました。

農家のみなさんへ「こだわりはなんですか」と聞くと、ほとんどの方が「土づくりです」「土がすべてです」と話されます。もちろん、こちらの阿部さんもでしょう。
でも今は、その土一面がこれ以上ないほど汚されていました。海水も深く染み込んでいます。
僕には、掛ける言葉が見つかりませんでした。
だから、ひたすら削り、ひたすら運びました。みんな同じでした。

ハウス内のひと通りの作業を終えると、最後に阿部さんは、「いつになるかわからないけれど、必ずまた産直きゅうりを作ります。これからもご支援よろしくお願いします」とお話されました。
明るく振舞う阿部さんのおかげで、今日参加したみんなも、最後には明るい気持ちで作業ができました。

右は紙面編集長の陣内さん。生産者ではありません。
左はグロサリのアシスタントの清水さん。ふたりとも顔を真っ赤にしながら頑張りました。

ずいぶんきれいになったハウス内です。
津波は、ハウス内に張られているビニールの高さまで上がったそうです。

再スタートのために、みんなで支えていきたいと思いました。

2011年6月3日金曜日

会議を終えて

今日は月に一度の企画会議。
街のはずれの、エレベーターもない築20年の、学校の校舎のような施設が会場でした。

外はとてもいい天気なのですが、廊下はひんやりしていて、とても静か。
あまりに静かなので、廊下を歩いていると、授業中こっそり抜けだしているような、そんな懐かしい気分になる建物でした。

建物のまわりには緑がいっぱいで、眼下に広がる沼には、鯉のような魚が泳いでいるのが見えました。
男・中澤さんはそれを見て、「それでも 鯉は、鯉~」と節をつけて歌っていました。
中澤さんは普段とてもいい人でしかも僕より一回り年上なので、聞こえていないふりをしてあげました。

昨日までの雨が嘘のように空は澄みわたり、風がなんともちょうどいい加減で敷地内の桜の葉を揺らしていました。

今日の会議は、震災の教訓を振り返りました。まだまだ震災中ですが、忘れないうちに。
また、これからの企画について企画担当部署から提案がありました。11月の企画提案でした。今はまだ夏前なのに、頭の中は秋色です。

事務所へ戻る道すがら、コンビニに寄ってアイスを食べました。
青空の下、平日の昼下がり、風に吹かれて食べるホームランバーは、抜群においしかった。いい大人がちょっと子どもじみているけれど、それがまたいい。これまた、授業を抜けだして食べているような、背徳の味がしました。

つかの間でも、オフは次のオンのために必要です。

明日は石巻へ、産直きゅうりの生産者の、ハウス内の片付けに行ってきます。

2011年6月2日木曜日

Radio Ga Ga

我が家は僕以外みんなテレビっ子です。

でも僕はテレビがあまり好きではありません。ほとんど見ません。
どうしようもない番組が多すぎる。家族の会話がかなり減る。箸が止まる。いろいろありますが、僕がテレビを見ない一番の理由は、「見始めると止まらなくなってしまうから」です。

見ていた番組が終わって、油断していると次の番組が始まっている。つい見てしまう。次のCMになったら消そうと思う。でも途中で消せない。結局1時間見てしまう。あーまた1時間経ってしまったー。後悔(涙)。だったら最初から見ないさ!(涙をぬぐう)。という感じです。

つまりテレビが悪いのではなく、僕の意志が弱いのです。それを棚にあげて、釘付けにするテレビのテクニックはすごいなぁと感心したりもします。

そんな僕を尻目に、テレビ好きの我が家ではいつもテレビがついているのですが、最近はなぜかテレビを消して、もっぱらラジオになっています。津波の映像を子ども達に見せたくないということもあるようです。
今思えば、震災後停電が続いていたときは、ラジオだけが心と情報の拠り所でした。一生懸命手回し充電しました。みんな寝静まった夜中に。一人。がんばりました。
それから、僕の奥さんも見直したようでした。ラジオをです。


ラジオは、いい。

聞き流せる。意外と笑える。懐かしい歌に思いがけず出会える。絵がないからいろいろ情景を思い浮かべる。家族でも会話が増える。それでいて、緊急地震速報もちゃんと鳴る。

不自由だからいいこと、アナログだからいいことって、実はたくさんあると思います。
我家の娘達は、いつもCG満載のテレビを見ているけれど、布団に入ったら絵本を読んでくれとねだります。
便利さは、手間や労力を省くことと引換えに、時に、想像力や考えること、工夫することを奪う面もあるよねと、みんなで昨日話しました。そういう環境の中だからこそ、今それに気づけたのだなと思います。


All we hear is Radio ga ga
Radio blah blah
Radio what's new?
Radio, someone still loves you!
(Radio Ga Ga)

ガーガー鳴るラジオが優しいこの頃です。