歴史の足あとは、残っていました。
フィリピンは全体的にいい加減な割に、教育にはとても熱心で、どんな山奥にも学校があります。公立の小中学校は無料なのだそうです。
そのおかげでほとんどの人が英語が話せて(日常会話はタガログ語などの現地語)、読み書き計算もできるのだそうです。
ダバオ市街地からカリナン地区に向かう途中のミンタルという町にさしかかると、右手に小学校が見えました。
このミンタルという町はかつて日本人街で、このミンタル小学校は今でこそフィリピンの子どもの小学校ですが、その当時は日本人学校だったということでした。
1910年代に日本からの移民が増え、そこで起業した日本人が、この地に人がとどまるようにという意味を込め、この地を「民多留(ミンタル)」と名付けたのだそうです。
この地で作られていた「マニラ麻」というバナナにそっくりな植物から出来る繊維は、丈夫なロープの素材になり、第一次大戦下でかなりの需要があったそうで、マニラ麻栽培は軍事産業としてこの地の主産業でした。
この時のマニラ麻栽培の技術が、後年、同じ芭蕉科のバナナ栽培に大きく生きたのだそうです。
時代は移り、第二次大戦に突入すると、アメリカ人やフィリピン人による日本人の強制収容、その後の日本軍の上陸、日本人の開放と支配、状況の変化、アメリカの支配、フィリピン人の日本人への報復・・・。
この地で暮らしていた日本人は報復を恐れ、自分が日本人であることのすべての証拠を燃やし、消し去ったそうです。
日本から遠く離れたこの土地で、生き延びるために、過去を、国を捨てた日本人がいたことを、初めて知りました。
このような経緯があるために、この地区にはたくさんの日系人がいるにも関わらず、証拠がないために、日系人と認められないケースが多いのだとか。
日系人に認められると日本で仕事ができることから、中には「日系人である証拠」が偽造され売買されることもあると聞きました。
移民の7割は沖縄からの人々で、今でもお盆の時期には沖縄のお年寄りが大勢押し寄せ慰霊の墓参りをしていくそうです。
「国籍」「民族」。
普段は考えもしないことが、日本から離れたこの土地で、バナナを見に来たこの土地で、ずしんと重く迫って来ました。
過去の隆盛、悲惨な歴史、そして今その遺産の一つとして、マニラ麻栽培の技術がバナナ栽培に生きている。
直接役に立つことのない、何にもならない知識でも、僕は知っておきたいと思うのです。
背景があって、表面に見えない部分に、必要じゃないけれどとても大切なことが隠れている。
こだわりのバナナが出来るまでのストーリー。
その物語を深く知るには、実はバナナの土づくりや気候や農薬の使い方とはまた別な部分、表面上は見えない部分を見ようとすることが大切なのだと思いました。
きっと、なんでもそうなのだと思います。
お世話になった皆さん。
大変ありがとうございました。